ヒンズー教徒にとって牛は神聖な動物、「インド人は牛肉を食べない」と思って疑わない人は多い。確かに、大半のヒンズー教徒は牛肉を食べない。だが、インドの実態は異なる。
インドで今、牛肉の問題が政治問題になっている。「建前と本音」に「宗教と政治」が絡まり、問題が拗れている。摩訶不思議な国インドの一面である。
「牛肉騒動」の発端は、今年10月に開催予定の‘コモンウェルス・スポーツ大会’、世界53カ国18都市の旧英連邦国家・都市が参加する4年毎の‘祭典’で、インド政府にとってはメダルの取れないオリンピックより重要な大会である。その選手村の食堂で「牛肉料理を出すか否か」、主催者側=政府は牛肉料理を出す計画だが、野党であるインド人民党(BJP)は猛反発、政府の方針を厳しく追及している。BJPはヒンズー至上主義、「牛を殺す行為、牛肉料理を出す行為は絶対許せない」と攻撃、連立政権を批判する絶好の材料に使っているようだ。人気取り戦術である。何処の国も与党と野党との論戦はあるが、さすがインド、牛肉料理の問題で激しい論争が展開されている。下手に対応すれば、ヒンズー教徒の反感を買う事になる。インドでは軽々しい問題ではない。
何故、ヒンズー教徒は牛を神聖な動物として崇め、牛肉を食べなくなったのか?
大昔から牛は有益な動物と看做されてきた。農耕に欠かせぬ役牛、牛乳は貴重な蛋白源、牛糞は燃料であり、壁土としても使われる。牛糞の灰の用途も多岐にわたる。小水は洗顔液同様に使われる事もある。牛は貴重な動物として大切にされてきた。
牛が神聖な動物と崇められ始めたのは、ヒンズー教のシヴァ神の乗り物とされた動物がナンディンであり、ナンディンは「天国に導く乗り物」と崇められるようになってからだろう。ナンディンは「乳白色でコブが一つある‘牡牛’」、インドでは全ての四足動物の守護神と崇められている。他方、牡牛は役牛に過ぎず、「乳白色のコブが一つある‘牝牛’」が聖なる牛と言う説もある。現在ニューデリーなどの街で闊歩している「聖なる牛」=「野良牛」は殆ど‘牝牛’である。インド人ですら良く判らないのが‘聖なる牛’の定義であり実態である。兎も角、そのナンディン崇拝が、何時しか‘全ての牛の崇拝’に発展してしまったようだ。‘牛の神格化’の経緯には政治的な意図が見え隠れする。
ヒンズー教の基本はヴェーダ、ヴェーダの世界では牛肉は食用として珍重された。今から3,000年位前までは、牛肉は冠婚葬祭の生贄として供され、冠婚葬祭の馳走として食べられていた。インドに南下したアーリア人、バラモンも牛肉を食べていた。だが、都市化が進み、人口が増え、穀物増産の為には役牛は貴重な労働力、食肉として食べてしまうと役牛が減少し、穀物増産が難しくなる。更に、農民が困窮し反乱の恐れも出てくる。牛の保護が不可避となり、バラモンが考案したのが、「牛の神格化」だと言われている。「牛を殺すのはバラモンを殺すのと同罪」とまでされた。牛の神格化は、仏教に帰依した名君アショカ大王の「生類憐れみの令」で完全になった、と言う歴史家もいる。
現在のインドは世界第4位の牛肉消費国、約1億5千万人のイスラム教徒は牛肉を食べる。ヒンズー教徒の中にも牛肉を食べる者もいる。牛肉は、鳥や羊の肉に比べ格安である。牛肉は貧民の貴重な蛋白源である。約2億6千万人のアウト・カースト(ヒンズー教徒)の一部も牛肉を食べているだろう。
ビーフ・ステーキが食べられる高級ホテルが増えてきている。インド各地に牛肉を売っている店がある。牛肉の輸入はインド外国貿易局発行のライセンスと農業省の衛生管理許可を取得すれば、出来る事は出来るが、実態は「輸入は殆ど不可能」に近い。たが、牛肉や肉牛の輸出は行われている。毎年多量の牛肉と肉牛がインドからパキスタンやバングラデシュに輸出されている。だが、輸出統計では判らないように工夫されている。判れば国民から顰蹙を買うからだ。
良質肉牛生産地で有名なのはコルカタとバンガロール。高級ホテルで食べる輸入ステーキは殆どコルカタかバンガロールから‘輸入’された牛肉である。インド人は「州が違えば外国」と言う感覚である。水牛の肉も多く食べられている。筋が固くて匂いがあるが工夫すれば食べられる。
これが、牛2億頭・水牛1億頭、計3億頭の‘牛大国インド’の実態である。それでいて今回の牛運騒動、全く訳の判らぬ国である。
さて、選手村の牛肉料理騒動、ヒンズー教徒の宗教心、牛崇拝の心は同じだろう。与党と野党の間で、インド人特有の「理屈」と「屁理屈」の論争となっている。最終的には、例えば「選手村は外国扱い」と言うところで収まるのだろうが、どのような論争が展開されるのだろうか? どんな「言い訳」どんな「誤魔化し」が飛び出すだろうか? 与党野党の知恵比べ合戦の様相を呈している。まさか、政治問題にまでは発展しないと思うが、国会議員は軽率な発言をしないように神経を使っているようだ。正にインド的問題である。
インドの牛に関しては,下記参照ください。
http://dankaisedai.iza.ne.jp/blog/day/20080425/
http://dankaisedai.iza.ne.jp/blog/day/20081230/


by はぐれ雲
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